看護師の疑問。病院で接客??

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大阪で派遣看護師をしています。<<看護師 派遣 単発 大阪>>他の病院に勤めている友達と会う機会があって、その時に色々話していたんですが、その友達の病院では、職員が接客研修を受けているという話を聞いてびっくりしちゃいました。接客? 病院って接遇じゃないの?と。

彼女がいるのはリハビリ科の病棟なんですが、リハビリはどこの病院も結構患者さんの取り合い気味が強くて、患者さんはお客様、というスタンスで接するようにと上からお達しが来たそうなんです。最近の病院はサービスが過剰すぎるとかそんな話も聞きましたが、そういう理由もあるんですねぇ。リハビリ科でもそうだから、慢性期とか療養型の病棟の場合はもっと接客という意味合いが強いのかな?今私がいるのは精神科病棟なので、接客とは結構無縁のような気がします。まぁ、接遇が出来ているかは疑問だけれど。

私は一年ほど前まで医療療養型病棟にいて、接遇委員を担当していました。接客はお客様に対するサービスがメインだけれど、接遇は気持ちの面が強くて、お客様、つまり病院の場合患者さんだけではなく、全ての人に心地よく感じてもらえるようにするのが接遇の意味、なんて話を聞きました。似たような意味の言葉ではありますが、何となく接遇の方が丁寧じゃないのかなぁ、とは思います。

そもそも、患者さんのことを「客」って思ってしまうのはなんだか間違いなような気がするんです。患者さんの要望することが全て叶えられるわけでもないし、明らかに間違ったこととかは止めたり注意しなければいけないし。こっそり甘いものを食べようとする糖尿病の患者さんとか、病棟抜け出して煙草吸う患者さんとかもいたりしますしね。そういう意味では、「接客」という言葉を使ってしまうと、患者さん自身にも「自分は客だ」という思いが芽生えたりして、結果的に態度が横柄になったり、看護側もサービスが過剰になったりしたり、いいことがないような気がするんですけどねぇ。

少なくとも個人的には、患者さんを「客」だと思うのは嫌だなぁ。例え言葉の上だけだったとしても、接客という言葉を病院で使うのはなんだか変な気がします。
結局のところ、何より大切なのは気持ちなんでしょうけどね。お客様ではなくて、一人の人間として対応するのが何より大切じゃないのかなぁ、と思います。

祖父の入院がきっかけで調理師になった私と薬剤師になった妹

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もう、20年以上前の話になります。私の祖父が食道ガンの手術のため入院をしました。ただ、予後はあまり良くなく、もって何か月となったため、母や叔母などが付き添うことになりました。

その当時私は中学生でした。母が付き添いで家を空けることが多くなったため、食事を作れないことがあり、インスタントラーメンを食べることが増えました。その時家に置いてあったのが塩ラーメンでした。その塩ラーメンを3日間ほど食べ続ければさすがに飽きました。そして、ご飯を作ってくれない母に怒鳴り散らしました。俺たちはご飯はなにを食えばいい、インスタントラーメンしかないと。

その時のことを思うとなんと自分勝手な子供だったと恥ずかしいというより、情けなくなります。なぜ、あの時自分でご飯を作るなり買い物に行くなりをしなかったのか、どうしてもっと母を気遣えなかったのかと。余命わずかの親に付き添いたくなるのは当然、そんな当たり前のことに気づけない当時のクソガキでした。身勝手な文句を言った私に母はごめんねと誤っただけでした。その後、祖父は他界しました。

20年たち、私は今二児の父となりました。娘が先天性の病気で生まれてすぐに入退院を繰り返す生活となり、妻は当然ながら娘の看病のため家を空けがちなるため、息子と家のことをこなさなけばならない日が続きます。家族の食事を作っているとその当時のことを思い出し、祖父にも母にも申し訳ないことをしたなと思うばかりです。

母は今も元気に暮らしていますが、あの時のことを未だに謝れずにいます。孝行したいときに親はなしいつかちゃんと謝れる日が来るといいのですが。でも、過去のトラウマと言いましょうか、インスタントラーメンの塩味を食べるとあの時のことを思い出すため、20年たった今でも食べることはなくなりました。塩味以外のしょっぱさを感じてしまう気がしまうからです。

余談ですが、ご飯を作れない自分を恥じてその後、調理師になりました。ちなみに妹は似たような理由で薬剤師になりました。結婚して愛媛に住んでいますが、こちらのサイトを参考に結婚・出産後も薬剤師として働いているようです
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婚活サイトで無料の出会い(海外に見つけた好きな人)

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友達の話になるが、高校生の時に好きだった人が去年海外に住んでいる事が分かったそうです。
どうしてもその人の事が好きなため、相手の人が住んでいる海外まで行ったそうです。

そこはフィリピンで、相手はもちろん日本人ですが仕事でフィリピンに住んでいます。友達が言うには日本に戻ってくる事がないようですが、どうしてもその人と結婚がしたいと言っていました。会いに行った時は相手の仕事をボランティアで手伝うために行ったので、親にはどんな事をしたきたのかを説明したそうです。

その時にその時の様子を形態で写真に撮ったので、見せました。

見せたついでに、フィリピンで暮らしたい事を言ったそうです。そしたら、やはり親は海外であるために心配になるのでダメだと反対されました。他の友達も私もその話を聞いた時に、反対したのは当然だと説得はしました。しかし、どうしてもその人と結婚してその人の子どもが欲しいと言っていました。

そのために、子どもが出来てしまうと親も結婚を諦めて良いと言ってくれるだろうと思っていると言っていました。そのために、子どもを先に作る計画を考えていました。他の友達がもしも子どもが出来ても、結婚を相手が断ったら子どもが可哀想と言っていました。

それを聞いた友達は、私が一人で育てると答えました。私も他の友達もそういう問題ではないと、説得しましたが結局言う事を聞くような感じではなかったです。そのため、私たちは心配で反対したんだから後は本人が決める事だねとなってしまいました。

多分その友達は、相手のためであなるならどんな事でも言う事を聞いて気に入ってもらえるようにしそうな気がしました。しかも相手の生まれは金持ちで、それを考えても価値観が合わないと言っていたのにそれでも好きになる友達の考えが私には分からないと思いました。でも説得は無駄な努力になりそうと感じたため、友達みんなは誰1人として口出しはもうしないと思いました。
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自分が快適だと思える過ごし方を極める!

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カフェ50歳になりました。この年齢になって感じるのは、「人の目ばかり気にしていると、自分が本当にやりたいことを見失ってしまう」ということ。

実際、若い頃は人の目ばかりを気にしていました。他の人に「すごいね」「素敵だね」「うらやましい」と言われるために休日を費やしてきたようなところもあったと思います。しかし振り返って考えてみると、人がいいと思うことは、必ずしも私自身が「やりたい」「楽しい」と思えることと一致しないんですよね。

45歳くらいからかな。もう、他人の評価なんて、どうでもいいと思えるようになりました。
やりたいことはやるし、やりたくないことは、まわりにどんなに勧められてもやりません。
もちろん、やってみたら案外面白かったなどという発見も無いわけではないですが、年齢を重ねたうえで、ある程度、自分に合っているか否かの判別はできますし、体力的にも無理はききませので、事前にある程度の判別はできます。
また、その直感みたいなものが、年齢を重ねるごとに、研ぎ澄まされていくように思います。

休日に無理して人混みに出かけたり、何時間も待って有名レストランで食事をしたりしなくても、近所でお気に入りのカフェに入り浸ってゆっくりしたほうが、私にとってはずっと有意義な時間になります。
そんな思いで生活しているうちに、逆に自分自身が望んでいるものが明確になり、お気に入りの場所やものがどんどん増えてきました。さらには、「お気に入り」に対して、大切に愛おしんで接するうちに、よりいっそう関係が深まったり、新たなる「お気に入り」を呼び込んできたりという、相乗効果を生み出しているようにも思います。

最近はSNSなどで「自分がいかに充実していて幸せか」ということをアピールする傾向がありますよね。もちろん、それを本当に楽しんでいるのなら、かまいませんが、心の底で、「むなしい」「しんどい」と感じているのなら、少し距離をおいてみる必要があるのではないかと思います。自分が大切なものをきめるのは、自分自身なのですから。